経済学部・経営学部の全学生を対象に、経済学部・経営学部図書委員会主催の「お薦めします、私のお気に入りの本」というエッセイコンテストを2020年10月12日から同年11月13日まで実施しました。その結果、82名(作品)の応募がありました。
「私のお気に入りの本」として紹介された本のジャンルは、小説をはじめ、エッセイ、学術書、ビジネス書、漫画、絵本など幅広かったです。また、エッセイの内容は、その本との出会いやその本のお気に入りのポイントなどが学生の皆さん各人の視点で書かれており、その本を知らなくても魅力が伝わってくるものでした。応募していただきありがとうございました。
応募作品を当図書委員会にて選考し、1等1名、2等2名、3等3名、佳作19名を入賞者として表彰することにしました。
特に優秀であると評価された1-3等の作品は以下の通りです。学生の皆さんには、これらを参考に、今後も読書に努めていただくことを期待します。
1等 経営学部2年 高橋明斗「正義とは何か」
(三田誠広著 『「新釈」罪と罰 スヴィドリガイロフの死』作品社)
2等 経済学部4年 横溝 由也「初めて人間を見る宇宙人になったような読後感」
(安部公房著 『砂の女』新潮社)
2等 経営学部2年 十塚淳矢「更生の為の復讐」
(湊かなえ著 『告白』双葉社)
3等 経営学部1年 匿名「マンゴーのやつを飲むために」
(若林正恭著 『ナナメの夕暮れ』文藝春秋)
3等 経済学部3年 森川遥翔「幸せとは?」
(アンネ・フランク著 『アンネの日記』文藝春秋)
3等 経済学部1年 匿名「愛読書に見つけた言葉」
(ダニエル・キイス著 『アルジャーノンに花束を』早川書房)
1等 経営学部2年 高橋明斗「正義とは何か」
(三田誠広著 『「新釈」罪と罰 スヴィドリガイロフの死』作品社)
ドストエフスキーの『罪と罰』という本は、高校時代に古典の先生に勧められていました。しかし、当時受験期だったこともあり、時間と共に忘れてしまいました。ところがある日、大学の図書館で偶然この三田誠広の本を見つけ、何かの縁を感じ読みました。
この本のあらすじは、舞台は帝政ロシアの首都ペテルブルクで、主人公である地区警察署の事務官ザミョートフが金貸し老婆を殺害した元大学生ラスコーリニコフを犯人だと考え、自主をすすめるために追い詰めていくという話です。ラスコーリニコフは自分のことを「選ばれた非凡人」、「自分はナポレオン」だと思っており、英雄になる一歩として皆に憎まれていた金貸し老婆とそこに偶然居合わせた老婆の姪まで殺してしまいます。しかし、ラスコーリニコフは事件後から罪の意識に苛まれます。
ドストエフスキーの原作ではラスコーリニコフが主人公で、犯した罪に対する苦悩が一人称で描かれていますが、この本ではザミョートフを主人公とすることで、原作の主人公であるラスコーリニコフを追いかける推理小説のような構図になっています。
この本の魅力は罪の意識に苛まれているラスコーリニコフの心情をザミョートフが推理しながら核心に迫っていくところだと思います。特に二人の会話の中で起こる心理戦は見どころです。
この本重要なポイントは、正義のためなら人を殺しても良いのか、つまり世の中のためなら道徳に反したことをしても良いのかを考えさせられるところだと思います。これは、社会に出る前に一度は考えて欲しい内容だと思います。
この本は宗教や哲学的内容を含んでいるため少し難しいと思いますが、頭脳戦が好きな方や罪の正当性を一度考えてみたい方は是非読んでください。
2等 経済学部4年 横溝 由也「初めて人間を見る宇宙人になったような読後感」
(安部公房著 『砂の女』新潮社
砂丘といえば、日本では鳥取砂丘が有名だが、実はあのような砂に覆われた地形がどのようにしてできるのかは、まだ科学的に明らかになっていない。しかし一説では、気候変動によって大気の流れが変ったことで、風に運ばれてきた砂がある日突然そこに集まるようになったのだという。つまり、砂丘とは最初から砂に埋もれていたわけじゃないのだ。もしかしたら、どこかの砂丘地帯の下には、人々が普通に暮らす村があったのかもしれない……
そんな砂に埋もれつつある小さな村が、この小説の舞台になる。ここではすでに20m近くもの砂が積もっていて、家々はまるで井戸の底にあるような状態になっている。毎日少しずつ崩れてくる砂をシャベルで集めて、穴の外に運び出すことで何とか形を保っているのだ。これがひどい重労働で、村には常に人手が足りない。そこで村人たちが目をつけたのが、何も知らずに休暇で村を訪れた主人公だった。彼に穴の中の家で一泊していくように勧めると、寝ている間に縄梯子を引き揚げてそのまま閉じ込めてしまうのだ。
はじめてこの小説を読んだときは、なんとか脱出しようと悪戦苦闘する主人公の男に強く感情移入して、とにかく夢中で読み進めたのを覚えている。読み終わった後は、閉じ込められたのが自分じゃなくてよかったと思って、心底ほっとした。
でもしばらくしてもう一度読み返すと、閉じ込められた主人公の生活と自分の生活には、そんなに大きな違いはないんじゃないかと思えてくる。そして、はじめて人間を見る宇宙人のような視点で、朝起きてから寝るまでの自分自身の生活を眺めているような、ふしぎな心境がしばらく続く。それは悪い気分じゃなくて、生活環境が大きく変わる時期に読むと、むしろ心を落ち着かせてくれる。そう思って久しぶりに読み返してみると、コロナ禍の外出自粛中に感じていたことを、まるで予言するかのような描写が多いことに驚く。ぜひ読んでみてほしい。
2等 経営学部2年 十塚淳矢「更生の為の復讐」
(湊かなえ著 『告白』双葉社)
以前、『告白』という小説を読んだことがある。書店で何気なく手にした小説だったが、深い寂寥感に襲われたことを今でも覚えている。
主人公の森口悠子は中学校教師である。森口には、愛美という一人娘がいたが、ある日、学校のプールで亡くなっているのが発見される。警察は事故死と判断するが、森口は自分のクラスの生徒による「殺人」であることに気付く。そしてある日の教室で、彼女の告白が始まる。
この作品の中で、私が最も慄いたのは、主犯の渡辺修也の猟奇的なまでのエゴイズムな動機だ。
もし、最愛の人の命が突然何者かに手前勝手な理由で奪われたら自分ならばどうするだろうか。『告白』を読んだことのある人なら誰しも考えたことがあると思う。それは私も例外ではなく、この本を読んでいる間、随分と考えさせられた。特にこの作品のように犯人が未成年だった場合、被害者遺族が望む刑では裁けない事が多いだろう。事件後も加害者は生きて普通の生活を送っているとしたら、最愛の人を殺した犯人と同じ世界で同じ空気を吸うことに私は耐えられるだろうか。逆上し本能のままに行動を起こしてしまうかもしれない。
主人公、森口悠子も最初はそうだった。しかし、パートナーである桜宮正義に諭され、彼女は復讐するのではなく、犯人の少年を更生させる道を選択した。彼女ならではの方法で。
この作品のような、常人では動機が理解できない事件は現実でも時折発生する。被害者はいつも突然奪われ、常に受け身でしかいられないことを、私は『告白』に教えられた。受け身側ができることはそう多くは無い。せめて、いつ来るやも知れぬ最期の時まで愛する人を大切にしようと、私の心に誓わせる作品であった。
3等 経営学部1年 匿名「マンゴーのやつを飲むために」
(若林正恭著 『ナナメの夕暮れ』文藝春秋)
僕はオードリーというお笑い芸人の若林さんの著書『ナナメの夕暮れ』について自分の言葉で魅力を話していきたい。この本のまえがきに、人生を楽しんでいる人はこの本を読む必要がないと書かれている。それは僕や若林さんのような斜めに物事を見ることしかできない人のための、いわば「ひねくれた人」のための本だからである。
ひねくれた人とはどういう人か説明するうえで著者の実体験の例を挙げると、スターバックスで注文する際にサイズを聞かれS や L ではなくグランデと答えるのが恥ずかしいと思っている、とある。これは自分が他人について、グランデなどと言っている人を恥ずかしいと思っているから自分でも恥ずかしいと思い、言えないのである。
この例で言えば、僕はスターバックスに入ることすらも恥ずかしいと思ってしまっている。何故かというと、わざわざ並んで、名前の長い飲み物を頼んで、インスタに上げる人たちを下に見ているからだ。そのため、僕はスタバに行ったことが人生でも3回か4回ほどしかない。1番最近行った時は、流行りのものが好きな後輩に誘われてだった。その時の僕は小さな声で「マンゴーのやつ、普通のサイズで」と誰も見ていないのに周りを気にしながら注文した。誰も見ていないが、自分の自意識が監視をするのである。マンゴーのやつはめっちゃ美味しかった。みんなもめっちゃ美味しいからスタバに行くのに、ひねくれているが故に行きたい場所を狭めてしまっている。
スタバの注文だけでこれほどの葛藤があるのだから、僕や著者がこの世界を生きづらいと感じているのは容易に想像出来ると思う。しかし、著者は周りの人を肯定していくことが自分を肯定することにも繋がると述べている。 僕はこの本を読んでいなかったらこのコンテストにも応募していなかったと言い切れる。なぜなら、自分の好きな本をショートエッセイで応募するなんて自己顕示欲の塊だと思っていたからだ。今、自分で書きながらも少しそう思っているが、この文を読んでくれる人がいることや応募できた自分を肯定することで、完全にではないがほんの少しだけ自分の世界が生きやすくなっている。
最後に、著者も述べている通り、こんな面倒くさい人間は少数派である。でもこの文を読んでこんな人間もいるのだと知っておいて欲しい。また、深く共感できた人には是非、著者の本を薦めたい。
3等 経済学部3年 森川遥翔「幸せとは?」
(アンネ・フランク著 『アンネの日記』文藝春秋)
私がこの本と出合ったのは、コロナウイルスにより自由な時間が増え、有名な作品だから1度読んでみようと何気なく手に取った時だ。
多くの人が、「アンネの日記」と聞いて想像するのは、少女の日記で、戦争で、ユダヤ人が迫害を受けて、アウシュヴィッツ強制収容所で、シャワーからガスが出て、などだと思う。私も読み始めはそうだった。
しかし、読むにつれ分かったのは、アンネ・フランクという弱冠13歳の1人の少女が、迫害から逃れるために、屋根裏部屋に隠れて生活した、約二年間の日常の物語だ。ドイツでのユダヤ人迫害が厳しくなり、フランク一家(父、母、姉、アンネ)は父の会社のある、オランダに亡命することになった。亡命先では、家族4人と友達のペーター一家(父、母、ペーター)3人と歯科医のフリッツの計8人で狭い屋根裏部屋での共同生活が始まった。その1か月ほど前にアンネは13歳の誕生日を迎え、両親にサイン帳をプレゼントされていた。サイン帳に、日常や、家族の話、同居人の話など日記のように使い始め、それが後のアンネの日記だ。日記にキティと名付け、包み隠さず素直に思いを語りかけている。ドイツ軍に見つかれば死を意味し、外に出ること、物音を立てることは許されず、少ない食事、トイレさえ制限されたギリギリの生活の中で、幸せや感謝を見いだし、今を生きる、私は感銘と共に悲しくなった。
コロナ禍で、当たり前だった生活ができなくなり不自由を感じている人が多いと思う。ストレスを感じる世界を私は憂いているが、アンネの状況に比べれば、どれほど幸せな生活をしているか、思い知らされた。幸せの定義は自分が決めるもの。屋根裏部屋の小さな窓から見た、青空に幸せを感じた彼女に、私たちは何を思う。世界記憶遺産に認定されているこの本を、戦争を知らない時代に生きている、私たちこそ読むべきだ。
3等 経済学部1年 匿名「愛読書に見つけた言葉」
(ダニエル・キイス著 『アルジャーノンに花束を』早川書房)
「ぼくは人間だ、一人の人間なんだ―両親も記憶も過去もあるんだ―おまえがこのぼくをあの手術室に運んでいく前だって、僕は存在していたんだ!」(キイス、243頁)
私はこの文章を読んだ瞬間胸が熱くなった。この本は、30歳を過ぎても幼児と同じくらいの知能しかない主人公が頭を良くする手術を受け、天才並みの知能を身につけていくという物語だ。その過程で主人公はいろいろな感情を覚えていく。
この主人公は知的障がい者で、他の人からの扱いが違う様子と近頃人種差別が問題になっている様子が重なり、この本の文章がより心に響いた。この文章は実験を聴衆の前で報告する際に責任者として登壇した教授が「チャーリィ・ゴードンはこの実験の前には、実在しなかったと言えるかもしれません……」(キイス、243頁)と発言したことに対する主人公チャーリィの言葉である。手術によって頭は良くなったが手術前の自分と別人になったわけではない。教授にとってチャーリィを傷つけようとした意識はないのかもしれないが、この言葉はチャーリィにとっては自分を否定されたも同然だ。この場面を読んで、チャーリィに同情した。しかしその後、「知らぬ間に私は私自身を笑っている連中の仲間に加わっていた」(キイス、296頁)と、チャーリィは自分が傷ついていた行為と同じことをしてしまっていたことに気付く。私は、教授の言葉を聞いてチャーリィが可哀想だと思ったのだが、この文章によって自分がいつ加害者になるのかわからないということに気付かされた。
私この本を読んで、人間は知能があればそれで良いのではなく、大切なのは心の成長なのだということを学んだ。これからはより相手のことを考えて行動していきたいと思え、対人関係についてとても考えさせられる本であった。